子安観音信仰

子安観音信仰のはじまり

天長5年(828年)河野家の祈願所と定められました。 特に河野道信の奥方が安産祈願のため高棚山の観音を信じ、道俊(得能家の祖となる)を無事出産して以来、子安観音としての信仰を得ることになりました。 元禄2年(1689年)松山城主久松定直の奥方が安産祈願のため、脇仏であった座像の正観音像(高さ約40センチ)を城内に祀り、無事出産したことにより、いっそう子安観音としての信仰が広まりました。 (城内に持ち込まれた仏像は、藩幕体制崩壊後の1878年になってから返還されている)

平井谷における観音信仰、子安信仰は、松平家の保護を受ける以前からあったようですが、1689年になって決定的となり、“平井谷の子安観音”の信仰はより一般的となりました。

    先代住職 高山正全の言葉

      「子供叱るな来た道じゃ、年寄り嫌ふな行く道じゃ」
      
      「親に孝行子に慈愛、妻宝極楽子孫繁栄」