明星院の由来・伝説

高棚山明星院の由来・伝説

1156-1223

高棚山明星院はじまり

高棚山明星院は、平井地区が一望に見渡せる小高い山の上にあります。 昔は、この場所から4キロも奥にありましたが、約400年前に土佐の長曽我部氏の兵火にかかって焼失し、現在の地に移されました。 本堂には、本尊十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)が安置されてます。 伊予国三観音の一つにあげられ、高見山、高縄山と共に有名です。 天長5年(828年)河野家の祈願所と定められました。 特に、河野通信(こうのみちのぶ)公(伊予の豪族で、北条時政(ほうじょうときまさ)の娘婿となり、源平合戦で活躍し、 その戦功により伊予道後7郡(今の中予地方)を領有した。) の奥方が安産を祈って、無事男の子(得能通俊(とくのうみちとし)公)を誕生して以来、「子安観音(こやすかんのん)」といわれ、広く信仰されてきました。 元禄2年(1689年)、松山城主久松定直(ひさまつさだなお)公の奥方が出産されるときも、安産祈願をし、 霊験あらたかでしたので、久松家の信仰が最も篤かったそうです。こうして、安産、子安、子育ての観音様として四方に拡がり、毎年4月17日には大護摩祈願(だいごまきがん)が行われ、 大勢の人でにぎわいます。 1月、7月、10月にも観音祭りが行われます。また、伊予十三仏霊場の発願の寺として、毎日のようにお参りの人が訪れます。 鐘楼の梵鐘は、昭和25年(1950年)に再鋳されたもので、よい響きをもっていて、小野の里に快く響き渡っています。
  • 天長5年(828年)河野家の祈願所
  • 元禄2年(1689年)、松山城主久松定直(ひさまつさだなお)公の奥方の安産祈願
  • 昭和25年(1950年)鐘楼の梵鐘を再鋳

観音様の由来

1660年- 1720年

与力松の観音像

昭和53年(1978年)西国、坂東、秩父の百観音霊場の砂を清めて、百体の観音像を安置しました。 本堂の裏山の百観音像を順々に参拝しながら、山道を登って頂上にたどり着くと百観音堂があります。 この観音堂の中には、中央に救世観音像(ぐぜかんのんぞう)、左右に毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)と不動明王像(ふどうみょうおうぞう)が並び、木の香りをただよわせ、力強く立っています。 この3体の仏像は、名松「与力松」が生まれ変わった姿なのです。 樹齢900年、高さ30メートル、根回り6・7メートルの巨木だった与力松は、小野地区のシンボルでもあり、伐採後地元の人たちが「名残惜しい。木はなくても、名松をしのぶよすがを。」と希望し、仏像を残すことになりました。 明星院15代住職髙山正全(たかやましょうぜん)氏の依頼で、小野出身の大西努(おおにしつとむ)氏が制作し、藤岡氏の協力もあって、昭和56年(1981年)に完成しました。 仏像の高さは、およそ62cmで、全体のバランスがよくとれています。顔には、生き生きとした表情が表れていて、威厳を感じる力作です。 本来、仏像にはヒノキ・クス・ケヤキなどがよく使われ、松は滅多にないそうですが、さすがは銘木。ヤニも少なく、しっとりとしていて、木目がそのまま仏様の衣装のように流れていて、よい材料だったそうです。 地元の人だけでなく、きっと姿を変えた与力松も喜んでいることでしょう。 そして、いつまでも、この山頂から、発展していく小野の町を見守ってくれるに違いありません。(ふるさと小野参照)